深い森に囲まれ、周囲から孤立した小さな村。
村人たちがお互いを家族のように思い合い、皆が幸せに暮らすその村には、決して破ってはならない3つの掟があった。
1.森に入ってはならない
2.不吉な赤い色を封印せよ
3.警告の鐘に注意せよしかし、盲目の少女・アイヴィーは、大ケガを負ってしまった恋人を救うため、森を抜けて村の外に出ることを決意するが・・・。
『シックス・センス』 で一躍注目を集めた、M・ナイト・シャマラン監督の作品。
『シックス・センス』 がオカルト(ホラー)と親子愛をテーマにした作品としたら、本作は、ミステリと純愛がテーマといったところだろう。
ミステリ好きのわたくしとしては、 『シックス・センス』 と比較して、本作の方を断然押したいのですが、恋愛ドラマというのが嫌いだったりする。。。(笑)
そこがマイナスポイントだったのと、主演のブライス・ダラス・ハワードの演技があまりにもひどすぎて、結果的に 『シックス・センス』 と同等の評価となりました。
※ これ以降ネタバレしてます。伏線を張ることにかけては、天才的なシャマラン監督。
本作も出だしからいきなり足を引っ掛けられた感じです。(笑)
プロローグは、ある男性の幼い子供の葬式シーンから始まります。
墓石に刻まれた年数は、1897年。
これを見て、ミステリー好きな方は、早速、怪しいと思ったことでしょう。
舞台は100年も前の物語なのか。。。? と。
その後、場面は村人の日常のシーンへと変わります。
村人たちの生活様式は、2004年の現代と比べるとかなり古い。
まさに、100年から150年前といったところ。
いかにも古き時代という設定だが、実は現代なんじゃないの。。。? という疑いはあった。
それぐらいの引っ掛けはする監督ですからね。(´ー`)┌
時代設定が古いことがずっと気になってましたね。
まさか、犯罪被害者の家族が平和で悲しみのないユートピア(村)を作るために、私財を投じて私有地を野生生物保護区にしてしまい、その中で時代に逆行した生活をしていたとは!!
薬を求めてコヴィントンの森を抜けたアイヴィーが、最初に出会った人物が乗っていた車のドアに、
“ウォーカー野生生物保護区” と書かれていたのを見た時に、 「うわっ! やられた!!」 とそれしか言えませんでした。
アイデアがずば抜けて素晴らしい。脱帽だ。
素晴らしいのですが、そのオチに到達するまでが長いのなんのって。。。 (;´д`)
特に、ルシアスがノアに刺されるまでが、タルくて寝てしまいそうだった。
謎ばっかりの村の生活に、ルシアスとアイヴィーの恋愛ドラマと、ほんと見てるのがつらかったです。
宣伝がホラーちっくだったのに、結局は恋愛ドラマだったのかと思った瞬間にガックリですね。
それだけに溜まりに溜まったストレスが、一気に発散されるオチが活きるんでしょう。
シャマラン監督は意図的にそのタルい時間を作っているので、それを知った上で観ないと駄作と言われかねない紙一重の作品。
本作のオチを知った後であれば、子供の葬式シーンが非常に重要なシーンであったことがわかる。
わたくしは当初、俗世から隔絶した村を作ることになったきっかけだと思っていたのですが、アイヴィーが町に行きたいと言い出した時、村のリーダー的存在でもある彼女の父親が、 「あんな思いはしたくない」 からと反対していた年長者を説得します。
そこで、あんな思いとは、あの子供の葬式のことかと思い当たる。
なるほど村では自然な生活、町と断絶した生き方を推奨してきた為、医療の点では現代では考えられないほど立ち遅れていたんでしょうね。
そのせいで、治療できる病気で死んだりという事態も起きていたと考えられる。
おそらくアイヴィーの目も失明する前に治療できたんじゃないかと思う。
そういうリスクを承知で、あえて理想郷を求めたはずだが、現実には事故や病気で苦しむ人が絶えず、これじゃ犯罪者被害者でいた時とどこが違うのかと、年長者らは誰とはなしに感じていたジレンマだったのだろう。
殺人犯が病魔にすりかわったのと変わりないからねぇ。
一番気になったのが、主役の全盲の女性・アイヴィーが、目が見えてるようにしかみえなかったことですね。
彼女の演技力の問題なのでしょうか?
実は見えてるんじゃないの? とか疑ったりもしたほど。。。(´ー`)┌
しかし、監督が素人でも違和感を抱くような演技を見逃すとは思えない。
物語では、アイヴィーは、目は見えないが、特定の人だけは色で見分けることができるというようなことを言っている。
父親や思いを寄せるルシアスの色はわかるとかなんとか。
ただ何故か、ルシアスの色については “教えない” と言及せずにいる。
ルシアスに言わせると、アイヴィーは何でもすぐに口にする性格のはずだが、ルシアスのオーラについては語らないのはおかしい。
そこで、ルシアスの色は “赤” だったんじゃないかと推測できる。
忌み嫌われる色なので、言いたくても言えなかった。。。とかね。
それを裏付けるシーンが、ルシアスがノアにナイフで刺されて重体になるのだが、医者もどきの男が、ルシアスを看て、 「生きようとする意志が強い」 みたいなセリフを吐く。
映画的には、もうやばいぞっていうセリフを言わせないと、観ている人間がハラハラドキドキしないではないかと思うところだが、医者もどきは呑気に、顕微鏡で細胞を観察する博士のように悠長なセリフを言うのだ。
昔から、赤という色は精力、活力といったエナジーの象徴と言われているからこそ、暗黙のうちにルシアスの色を観客に知らせたかったのかもしれない。
監督には重要な色であり、ワンシーンだったかもしれないが、個人的に、この映画にそんな細かいところまで色に拘る必要性を感じなかったんですけどね。。。
ミステリーとして非常に優れているのは、やはり伏線の張り方が上手い。
基本的な設定として、アイヴィーが盲目であることと、ノアが知的障害者であるという点。
そこに、アイヴィーには特定の人物だけ、その相手の存在を色として認識することができるという能力。
様々な場面でこの伏線が、自然に、そして巧みに活かされているように思う。
面白いのが、無垢な人間は化け物に襲われない、だから知的障害のあるノアは襲われないんだ、と村人は言ってました。
しかし、逆説的に考えると、常識や既成概念のないノアだからこそ村の秘密に肉薄出来たし、化け物の正体は村人の年長者がやっていることだと知っていた。
知っていたからこそ平気で森に入っていけたし、怖くなかったわけです。
裏を返せば監督が仕掛けた本当の意味での伏線は、知的障害者は無能であるという偏見そのものだったのかと思える。
つまり、騙された自分(視聴者)がいかに傲慢な人間かを思い知るための痛い映画であるということ。
これって、知能が高くても無知な人間は、アホと同義語だっていう教訓なんですかね。。。(´ー`)┌
それと、化け物は年長者が演じていたという真相を知っても尚、盲目なばかりにノアが変装した化け物を本物だと思い込み、ノアを死に至らしめてしまうという最後は、悲劇的ですよね。
不可抗力だとわかっていても、幼馴染を殺してしまい、真相を知らずに化け物を退治したと喜び勇むアイヴィーに、その死を知ったノアの両親、殺してしまった娘の父親、ルシアスの母親と。。。
一体どの登場人物の立場に立って共感すべきか悩みますね。(笑)
それよりも、ユートピア村の近隣関係が一挙に崩れそうなことが心配。(´ー`)┌
ミステリーとしては十分なカタルシスを味わえた反面、ドラマとしては痛烈な皮肉のパンチを食らったような結末です。
この映画を観ていると、どこかの独裁国家が頭に浮かびました。
大人達のエゴや価値観で作り上げた村。
子供達をそんな盲目的価値観や恐怖心、罰で縛っても、人間が本来持つ、人を愛する気持ちや、命を重んじる心、未知の世界への探究心は縛ることはできない。
この本能があったからこそ、人間はここまで繁栄してきたのだ。
この村の大人たちは過去、彼らの大切な人々の人権を奪われるという悲劇に見舞われた。
しかし、彼らは同じ事を自分達の子供にしていることに気づいていない。
子供達の人権を無視した村づくりが果たしてユートピアと言えるのか。。。?
現実から目を逸らし続ける大人達に、現実を知らされない子供達は、目が見えていても、何も見ていないのと同じではないか。
全盲のアイヴィーの人間像は、そんな村人を痛烈に皮肉ってますね。 (´ー`)┌
独裁国家は遅かれ早かれいずれ、淘汰されていくでしょう。
人間は常に進化し続ける生き物ですから。
だからこそ、悲しみから逃げる為の村作りではなく、そのマイナスなエネルギーを、プラスに変えていくことが大事だったのでは思う。
主役が霞むほど光っていたのがノア役のエイドリアン・ブロディの演技。
ルシアスを何度も刺すシーンはゾッとしました。
そして今回、シャマラン監督は野生生物保護区の管理人(上司)として出演してましたね。
チラっとガラスに反射した顔が見れました。 (o゚c_,゚o) プ
( ゚_ゝ゚) { 『その“地上の楽園”は、奇妙な“掟”に縛られていた…。』 見えないが故の過ち、見えるが故のおろかさ。