1976年、悪魔にとり憑かれたとされる、ドイツ人女子大生アンネリーゼ・ミッシェルが死亡した。
その死をめぐり、彼女を死なせたとして、法廷で争うこととなった、神父と女性弁護士の法廷劇。
実話がベースということらしいですが、ハリウッド制作ということもあり、演出においては、かなり脚色されてるように思える。
どこまでが真実で、どこまでが虚飾なのか、ピンぼけ映像を見ているようで微妙ですね。
個人的には、最初から終わりまで、フィクションのような印象を受けました。
脚本は、 『エクソシスト』 のようにオカルト色が強いのかと思いきや、真面目な法廷ドラマだったと言える。
ただし、間抜けなというか、あっさりし過ぎな
“判決” には驚きです。
そんなんでいいのかよ!? 今までの法廷論争はなんだったの!?
と本作の全てを覆すかのようなラストです。
※ これ以降ネタバレしてます。このショッキングな事件を、掘り起こした時点で、映画としては大成功だと思った。
それを妙なオカルト・ホラーとして映像化しなかったことも好印象。
ただ、事実に基づいて作られたにしては、あらゆる点で、明瞭な解決がされてないということ。
それは、1970年代が、科学や医学の過渡期でもあったせいではないかと思う。
多くの人々が、スピリチュアリズムとマテリアリズムの間で揺れていたのだろう。
現代でこそ、精神疾患(統合失調症)に対する研究は、進んでいますが、当時はそこまでの医学の進歩は見られなかったと思いますし、まだまだ信仰心の篤い人々は多かったはず。
そんな中でも興味深いのは、カトリック自体が、悪霊や悪魔の存在をどう認識しているかだ。
本作を観ての個人的見解としては、カトリックは一般ピープルより、現実的な集団であると思える。
日本の場合、それは仏教や、神道に値するのだが、わたくしですら、自分は現実的な人間だという認識はあるが、
“いざ” という時は、神様、仏様と、おもわず手を合わせ、神頼みをするだろう。
だが、神仏に仕える人間は、果たして一般的な人々と同じ認識かどうか怪しいもんだ。
映画でも、カトリック側は、法廷に立たされた神父に対して、司法取引を要求したり、証言台に立たせる事を拒否させるよう、圧力をかけてきたことでもよくわかる。
この裁判で一番苦しんだのは、
“信仰と科学” との間に立たされているカトリックだろう。(´ー`)┌
悪魔の存在を否定することも出来ず、かといって、堂々と社会に肯定する意思表示をして、科学(現実)を無視するような、時代に逆行する態度を示すことも出来ない。
カトリックとしては、問題を穏便に、被害を最小限に留めて、裁判を終わらせたかったのだろうね。
さらに、現実的な裁判に勝つためには、非現実的な事象を証明しなければならない弁護士の葛藤とか、結果として、医学で全てを解決出来なかった、医師の歯がゆさだとか、ドラマ性としても面白かったし、裁判に関わった人々が、この映画を観た人々が、
“信仰と科学” について考えることが出来たのかなと思える。
“悪魔憑き” に関しては、現代では統合失調症(多重人格症もしくは、分裂症などの複合)として、解釈されると思われます。
わたくしもそう認識しています。
はっきりいって、悪魔だの悪霊だのといった目に見えない妄想よりも、人間の精神世界(脳のしくみ)の方が、より神秘的だし、現代の科学を超える不思議なものだと思います。
人間の脳は簡単に錯覚を起こすし、幻覚を見れば、幻聴も聴く。
それには、人間には感知できない波長や音波、磁場のようなモノから、先天的、後天的な脳の病気や外傷による要因や、人間が持つ想像性に、暗示といった心理的なモノまで、ありとあらゆる要因が重なり、影響しあい起きる現象でもある。
エミリーの場合、信心深い上に、人一倍感受性が強く、トランス状態になりやすい性質があったのかもしれない。
これらの条件は、一般的に悪魔憑きとされてきた人々の共通点でもあり、神秘性どころか、科学的根拠があると考えた方が理にかなっている。
エミリーは、大学でも宗教を掘り下げて学んでいたらしいですから、怪しげな宗教団体のセミナーなんかに通って、洗脳されてる可能性も無きにしも非ず。
問題は、映画でも疑問視された、
“信心深い人間や、熱心な信者に限って、何故、悪魔・悪霊が憑くのか?” ということと、そもそも、
“悪魔・悪霊が人間に憑くことに、どんなメリットがあるのか?” である。
これに対して、神秘主義者の人達は、明確な回答を出しているのでしょうかね?
科学的には、悪徳宗教などに引っ掛かるおバカさん達は、神仏や人や物事に依存しやすく、素直で暗示にかかりやすいタイプであるという研究データもあるようですし、オウム事件の時もそうでしたけど、意外と高学歴な人間ほど、流されやすい。
人の心のスキを突いて、恐怖心を植付ける暗示こそが、悪霊であり、たぶらかした人間自身が悪魔であると思えます。
百歩譲って、もし、神秘世界がこの世にあったとしたら、悪魔・悪霊にとって、信仰心篤い信者の肉体ほど、住みやすい寝床はないと思ってるのか?
それとも、日本人の感性からいったら、 “人間” の体に入った幽霊なんぞ、恐いわけがなく、それよりも、幽霊として目の前に出現したり、超常現象を引き起こされる方が、断然恐ろしいわけで、同じ理屈で、悪魔・悪霊も人間の体に入ってしまえば、人間以上のパワーを発揮できるわけがない。
出現した悪魔・悪霊を退治するには、人間の肉体に閉じ込めてしまうのが最善と、神が自ら用意した器が、檻(人間)であり、外に出さないための鍵が、信仰心であると考えられないもんか。。。
つまり、メリットは神の方にあり、その生贄としてエミリーが選ばれたと無理やり想像することも可能かな。(´ー`)┌
この裁判自体は、カトリック側の意図とは反し、注目を浴びて、盛り上がっちゃったみたいですが、判決に関しては、神父に有罪を申し渡したものの、量刑は裁判期間をもって満了したものとするという、温情のある大岡裁きでした。
事実上、神父の勝訴ですよね。
この判決を聞いた瞬間、これってありなの? と思わずにいられない。
っつか、判決どうのっていう以前に、神父に悪魔払いを依頼したのは、エミリーを含め、家族の方じゃないの?
とりわけ、両親の責任の方が重いと思うのですが。。。
その両親にはお咎め無しっていうのは、納得いかんな。
当時の社会情勢っていうのは、それだけ神父の意見が絶大だったと思えばいいのか。。。?
( ゚_ゝ゚) { 『彼女に棲みついたのは、病か、悪魔か』 病という名の悪魔。